尿前の関跡   宮城県  
宮城県の指定名勝鳴子峡に立ち寄った後、国道47号線沿いを走っていると、尿前の関の駐車場   
があったので寄ってみました♪
にょうまえ?にょうぜん?読み方がよくわかりませんでしたが、シトマエと読むそうですよ。

尿前の関は江戸時代、仙台藩が山形に通じる出羽街道に設けた関所の跡で、奥の細道の旅の途中、
松尾芭蕉もここに立ち寄り、厳しい取り調べを受け「蚤虱馬の尿する枕もと」という句を詠んだと
いわれています。
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おくのほそ道 尿前の関跡 駐車場から0.2km
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階段を下りて行きます。
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駐車場から階段を下りきるとおくのほそ道 史跡出羽仙台街道中山越の碑がありました。
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芭蕉の句碑
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尿前の関跡
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尿前の関 案内板より転記

古くからこの周辺は国境として柵が設けられ,天明2年(1782年)の「岩手関由来書」(鳴子・肝入
遊佐甚之丞)には,「秀衡の世に陳ケ森の陣に多数詰居て(中略)柵のあとありありと残る」とある。
尿前に番所が建てられたのは,仙台藩の法令「御境目御仕置」から推測すると寛文10年(1670年)
ごろと考えられる。岩出山伊達家の職制に「尿前御関所役」とあり,伊達藩から尿前に役人が派遣さ
れていた。芭蕉と曽良がこの関を通ったのは,元禄2年(1689年)5月15日(新暦7月1日)のことで
ある。芭蕉の「おくのほそ道」には, 南部道はるかに見やりて岩手の里に泊る 小黒崎水の小嶋を
過てなるこの湯より尿(シト)前の関にかゝりて出羽の国に越むとす 此道旅人稀なる処なれば関守に
あやしめられて漸にして関をこす(芭蕉自筆奥の細道・岩波書店より)とあり,曽良の随行日記には,「尿前関所有。断六ヶ敷(ことわりむつかしき)也。出手形ノ用意可有之(これあるべき)也」とある。
当時の番所の規模は明らかではないが,幕末の屋敷は,東西44間,南北40間で,周囲は石垣の上に土
塀をめぐらし,屋敷内には,長屋門,役宅,土蔵,板倉,酒蔵など建物10棟があった。長屋門は間口
8間・奥行2間,役宅は間口17間・奥行11間,土蔵は間口3間・奥行4間で2棟,板倉は7間・3間などと
いうもので,他の番所に比べてもかなり大きな規模を持つものであった。尿前の関をようやく通され
た後,直後の薬師坂そして小深沢,大深沢の大難所を越えたにも関わらず,「よしなき山中」の封人
の家で3日間も足止めさせられたこの峠越えは,芭蕉と曽良にとって苦難の日々であったろう。
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義経伝説 弁慶の船引き  案内板より転記

陸奥の国に入った義経一行は尿前の関守館に旅装束をとき、しばらくぶりに安らぎの一夜を明かした。山の幸・川の幸でもてなしを受け、川下の川原湯に案内された。北の方はことのほか喜ばれ朝な夕な
亀若丸と共に入浴して、長途の疲れと産後の回復にしばし留まることになった。毎日の送り迎えは弁
慶の日課となった。以前、上鳴子には船渡・船引という地名があったが、これは北の方の毎日の入浴
に弁慶が流れを漕いで船を引いたことからでた地名だという。その温泉は川原湯(現在の姥の湯)だ
といわれ、亀若丸を湯に入れて「この地、もはや藤原秀衛の国なれば泣き玉うともはばかることなし
と申しければ、始めて泣き玉う」と。故に、「泣き子の湯」といい、瀬見の湯は「なかずの湯」とい
ったという。
                             鳴子町史より 鳴子町観光協会
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関所跡の門の奥は空地になっていましたよ。
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木陰には・・・・・
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松尾芭蕉の姿がありました・・・・
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