豊国神社 滋賀県
滋賀県長浜駅近くに鎮座する豊臣秀吉公をお祀りする豊国神社をお参りしましたよ
神社鎮護の神像 加藤清正公銅像
手水舎
初めて見るタイプかモウ~
手水鉢が地面と同じ高さにあります
拝殿 神殿は江戸時代中期の建造物
御祭神 豊臣秀吉公 加藤清正公 事代主大神 木村重成
摂社 稲玉命出世稲荷神社
摂社 天満宮
秀吉公と豊国神社についての説明書
秀吉公遺愛の虎石
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滋賀県長浜駅近くに鎮座する豊臣秀吉公をお祀りする豊国神社をお参りしましたよ
神社鎮護の神像 加藤清正公銅像
豊国神社 御由緒より転記
天正元年(一五七三)信長の進攻により小谷城の浅井家が滅亡し、湖北が秀吉公の知行地になると翌年長浜城と城下町の造営に着手し、それ以後楽市楽座の制度と地租税三百石免除の恩典で、江戸時代を通じて長浜の商家は大いに繁栄しました。
天正元年(一五七三)信長の進攻により小谷城の浅井家が滅亡し、湖北が秀吉公の知行地になると翌年長浜城と城下町の造営に着手し、それ以後楽市楽座の制度と地租税三百石免除の恩典で、江戸時代を通じて長浜の商家は大いに繁栄しました。
慶長三年(一五九八)秀吉公が逝去されると、町民は太閤さんの恩徳を慕って豊国神社を建立しましたが、江戸時代になり太閤さんを神格化することが禁じられて取り壊され、秀吉公の御神像は町役人の家々で守り継がれた時代が続きましたが、寛政五年(一七九三)「えみす宮」の建築許可をうけ、奥に御神像を安置して密かにお祀りしていました。現在の神社名は、明治維新後に晴れて復帰した名称です。
手水舎
初めて見るタイプかモウ~
手水鉢が地面と同じ高さにあります
拝殿 神殿は江戸時代中期の建造物
御祭神 豊臣秀吉公 加藤清正公 事代主大神 木村重成
摂社 稲玉命出世稲荷神社
摂社 天満宮
秀吉公と豊国神社についての説明書
秀吉公遺愛の虎石
秀吉の忠臣であった加藤清正が寄進した庭石で、秀吉がとても気に入っていたそうです
秀吉が亡くなった後、江戸時代にこの庭石は大通寺へ移設されることになると、庭石は
「いのう(帰ろう)、いのう」と泣き叫んだので、そこですでに廃城になった長浜城内の敷地
に戻し、時を経て、秀吉が祀られた豊国神社へと移されたという伝承があります
に戻し、時を経て、秀吉が祀られた豊国神社へと移されたという伝承があります
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